松原の口碑と伝説
松原と弘法の水
松原湖の水と甲州の長坂の近くにある弘法の水はつながっていて、松原湖の水が濁れば弘法の水も濁るという。ある時松原湖へこびき糠を流したら弘法の水へ流れ出たという。信玄が松原神社を信仰するようになったのは、こんなことも一つの原因であったという。
畠山重忠の母の墓
松原湖の弁天島の湖中に、塚があって、減水の時には水上に現れる事がある。これは畠山重忠が母の菩提を弔うために建てた墓であるといわれている。
武田信玄の墓
松原長湖の中に塚のようなものがある。これは武田信玄の遺骸を納めた石棺だということである。
尾かけの松
松原湖諏方神社下社近くの湖の上に枝を伸ばした二タ抱えばかりの松を尾かけの松と呼んでいる。昔諏訪様がりゅうになって松原へ移られたとき、体は湖の中へ入ったが余った尾がこの松にかかっていたと云うことである。これは大正時代に「下の松」が倒れかけたころに作られた話である。
朝日夕日の松
松原神社の上社から弁天島へ下る途中に松の大木があった。朝は一番にこの松に日がさし、夕方は一番遅くまで日が残っているというので朝日、夕日の松と呼び信仰的な銘木であった。
山犬
松原から海尻へ下る道には昔から山犬が出て、夜遅く海尻の方から帰ってくる人のあとをつけて来た、村の見える所までくるといなくなる、家へ帰ったらあずき飯をたいて門口の石の上などへ置いてやると、山犬はいつの間にか食べてしまう、若しそれをやらないと何か仇をしたという。
狐にたたられた話
松原のある人がまきを取りにゆくと狐の巣があった、中にいた子をつかまえて来て、子供のおもちゃにしていた、その後子供を馬に乗せてきつねの巣のあった所まで来ると、馬はなにかに驚いてはね上がり、子供は落馬して鼻血をだした、これがもとで子供は病身になって遂に若死にしてしまった、「あれは狐にたたられたのだろう、狐はきっとかたきをするからほんとに恐ろしい、」と村の人は言っていたと云う
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畠山重忠とりゅう
昔源頼朝がらい病にかかった時、りゅうの生肝をのめばよいという神のお告げが夢に現れた。頼朝は畠山重忠にりゅうの生肝を取って来いと命じた、重忠はどこえ行けばりゅうがいるとわからないので困ったが、これもまた、ある夜の夢に、信州松原湖にすむりゅうの生肝を取るがよいと教えられた。重忠はすぐに出かけて、松原神社から弁天島へ下る大弥太坂で母に行き合った。重忠は母に頼朝の命を話すと「私が湖中にはいって蛇躰となるから肝を取って主君に奉れ」といって入水した、たちまち水面に水柱がたったと見る間に大じゃの姿が湖上に現れた。重忠はいまはもう、ちゅうちょする時ではないと、ついにこれを殺して生肝を頼朝に差し上げた。頼朝は病気がたちまちなおったので、湖畔神光寺の境内へ重忠の母のために五重の塔を建てて供養したという。
頼朝病気平癒の為、重忠が松原湖の主のりゅうに身をささげて祈ったから頼朝の病気がなおったともいう。
化け物の話
昔、松原湖畔のある家に毎夜さかだわらをかぶったものがやって来る。それが縁側へ上がって「長太がきくぞ、さっさとおどれ、さっさと踊れ」といっては踊った。ある夜のこと、曽の正体を見ようと思って、そのもののあとを付けで行くと、裏道を通って諏訪神社の石の鳥居の辺へ行くと消えてしまつた。それから毎夜つけたがいつもこうであった。そこで消えて見えなくなる辺へ石の祠を建ててまつるとその後はでなくなったという。
松原の七不思議
浮き木明神
松原湖弁天島の橋の南側の湖中に大きな浮木があった、それを湖中のどこえ引いて行って置いても、いつの間にかもとの所へ戻っていたという、またその木を底へどんな丈夫な綱や太い藤などで繋いでも、きって何処かへいってしまう、そしてしばらく姿を隠しているいるが、そのうちにまた戻っていたという、里人は神様の宿れるものとし、浮き木明神と称してあがめていた。
御神渡り
おみわたりは、浮木明神の所から向こうの岸の下社の前の三本の松の所へ上がる、上の松へ上がれば凶年、中の松へ上がれば豊年、下の松へ上がれば豊年だが大水が出る、この松からはずれた場合上へはずれるほど凶年、下へはずれればはずれるほど大水が出る、三本松のある間のなかならばはずれても大したことはない。
また乱暴な渡りかたをすると戦争が起きると云われている。むかしは大寒いり三日の中の深更に必ずあった、物好きが夜こっそり様子をうかがっていたことがあった、それ以来御神渡りの日はきわめて
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不規則になった、御神渡りのあるのは湖上鏡のような氷のはっている時に限る、浮木明神以外の所
から出ることもあるが、それはにせものであるという、最近は5,6年前にこのことがあっただけである。
木谺岩(または小玉岩、児玉岩)
猪名湖の東岸から五十間ばかりのところに直径十間ぐらいの大岩があって、其の上に直径一間ばかりの丸い岩がのせたようになっている、これを木谺(こだま)岩といっている、〔湖の減水した時は現れて見える〕この岩は畠山重忠がりゅうを殺した時そのあごから出た玉が化したものだといわれている、其の岩の真上の水面に小さな玉がかげろうのようにあらわれて見えたり見えなくなったりした、
見えたときはころころしていたがどこえもころんでいかなかった、今は見えなくなってしまった。
屏風岩
猪名湖の西北のすみ「うばのふところ」というところの水中に屏風をたてたように切り立った岩がある、晴天には水をすかして見るとよく見えるという、うばのふところというのはこの湖水で最も水の深い所で、山がせまってものすごい感じのするところである、また一説には屏風岩というのは下社の裏のほうにある大きな岩だともいう。
神座遠の松〔また神座尾とも書く〕
神座遠(かざお)のまつは鳳凰(ほうおう)松または鳳尾松ともいって松原神社から御射(みさ)山の原へ行く途中の坂の上にあった、目通り五かかえもある大木で、そこから幹は八本にわかれて、ちょうど鳳凰が翼をひろげたように枝が地上までたれていた、御射山の神事の時は神様のご小休場となって、神事がとり行われる。この松は風の無い時でも鳴っていたということであるが、惜しいことにすっかり枯れて今は四本の幹だけが残っている。
星見の松
星見の松は御射山の原にあって目通り約二かかえ半、そこから幹は二つにわかれている、御射山の神事の行われる八月二十七日の午(うま)の刻に、この松の下でこずえを通して中天を見ると、乾(いぬい、北西)のほうに昼間でも星が見えるという、御射山の原はまた流鏑馬(やぶさめ)の原とも云って、松原神社から西方半里余のところにあって、御射山の神事が行われる所である。
もろはのすすき
もろ葉のすすきは葉が対生したもので、御射山の原のどこかえ何時かはえる、これは心の正しい神様の意にかなった人でなければ容易にみつからない、何十年か前に二、三人だけである。
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野ざらしの鐘
松原湖畔の諏方神社上社境内に野ざらしの鐘がある、この鐘は武田信玄が、川中島の戦いの折、落合(高瀬村)の新善光寺からぶん捕って来て寄進したものである、この鐘を士卒に引かせて大月川の手前まで来ると、どんなに押しても引っ張っても鐘はすこしも動かない、そこで信玄が「これはきっと松原の諏方様の恨みだろうから松原へ運ぼう」と独り言をいったら動きだした、それで海尻の坂を引き上げて奉獻した。
この鐘を屋根の下に置くときっと火事の難にあうという、徳川時代から社殿や氏子のぶらくから数回の火難にあっている、最近では明治二十一年に社殿が焼失した、これはお宮のひさしに鐘を置いたためだといわれている、その後小学校(松原分校)の軒下に置いた事がある、そのためか学校は焼失の災にあった、これは明治三十三年三月のことである、村人はまたこんな災難にあっては大変というので、このように屋外にさらして置くのである、松原のなかに火事やその他の災難のある前にかねの龍頭(りゅうず)が異様な響きを立てるという、この鐘を他所に移すと災難にあうといわれている。明治になってからも、落合の人達とこの鐘を返す約束が出来たがこのことに主になって奔走した松原の二人の人の長男が相前後して亡くなったという、またある時落合から買い取りに来た人は松原まで確かに持ってきたという財布が何時の間にかなくなってしまっていた、仕方がないから破談にして出かけると、その財布がお宮のそばの橋の下に有ったと言う、その人はついに発狂したということである。
諏訪様と白馬
諏訪様(建御名方命)が白馬に乗って松原に来られた時、馬の足にくず葉のつるがからみついてつまづいた、諏訪様は落馬してごまで眼をつかれた、それから後松原ではくず葉とごまは作らない、また白い馬も飼わない数年前某が白馬を飼ったが災難が続出した、これは諏訪様のたたりだと云って今でもこの戒めはかたく守っている。
八幡様と白い鶏
松原湖畔に八幡様のお宮がある、この八幡様は白い鶏を飼うことをおきらいなされたから、松原では白い鶏は飼わなかった、もし白いのなどが産まれると皆この八幡様へあげてしまったものだ。
大弥太、小弥太坂
武州川越の戦いに、ぼろの鎧を着て奮戦したという大弥太、小弥太は松原の出身だと云う、今もその名をとって付けられた地名が残されている、大弥太坂は、諏訪神社上社から弁天島へ下る坂をいい、小弥太坂は、松原分校の東南方長湖の方へ下る坂道である。
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